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樫尾俊雄について

樫尾俊雄は様々な歴史的な製品を
生み出した発明家であり、
カシオ計算機の創業者の一人として
同社の創業と発展に貢献しました。
さらに名言・至言の数々を残した
言葉の発明家でもあります。

発明家 樫尾俊雄

1925年、東京生まれ。6歳の時エジソンに感動し、発明家を志しました。
兄・忠雄、弟・和雄、幸雄の3人の兄弟とともに計算機の開発に取り組み、1957年、世界初の小型純電気式計算機「14-A」を発明し、カシオ計算機株式会社を設立しました。その後、世界初のオートカレンダー付きデジタルウオッチ「カシオトロン」を開発。さらに音とは何かを自ら研究して電子楽器を開発するなど、数多くの発明品を世に送り出し、2012年、87歳でその生涯を閉じました。
生涯で313件の特許(共同名義を含む)を取得。東京発明協賛会会長賞受賞(1958年)、藍綬褒章受章(1984年)、米国家電協会生涯業績賞受賞(2000年)。2007年に東京電機大学より名誉博士号を授与されました。

《発明哲学を伝える
多くの名言・至言》

樫尾俊雄は、多くの名言・至言を生み出しました。
そのほとんどは彼の発明哲学と言える言葉で、いずれも含蓄のあるものばかりです。当館ではエントランスや各展示部屋に樫尾俊雄の言葉をパネル展示しています。発明品とともに知ることでいっそう彼の魅力を感じることができます。

わたしが魅力を感じることは
何もないところ
つまり0から1をつくっていこう
それだけなんです。
はじめに何か見本があって
それに対して改善や改良をつけ加える。
1を2にするという形じゃなくて
この世にないものをつくっていこう・・・
そればかりでした。

「必要は発明の母」は昔の言葉。
ユーザーが求めているものを作るのでは遅すぎる。
ユーザーがまだ気づいてもいないような
必要性を呼び起こす発明をしなければならない。

『計算機の中に宇宙の意思をみた』 『計算機の中に宇宙の意思をみた』 『計算機の中に宇宙の意思をみた』

樫尾俊雄の生涯

1925(大正14)年

東京市 京橋区にて、父・樫尾茂、母・キヨノの次男として生まれる 東京市 京橋区にて、父・樫尾茂、母・キヨノの次男として生まれる

1937(昭和12)年 12歳

電機学校に入学。
弱電を学ぶ
電機学校に入学。

1940(昭和15)年 15歳
電機学校を卒業、逓信省に入省
1945(昭和20)年 20歳
モールス通信の高速送信装置を特許出願
1946(昭和21)年 21歳

逓信省を退官。兄・忠雄の営む樫尾製作所に参加。「指輪パイプ」を発明。ヒット商品となる。日比谷・東京宝塚劇場で行われた、そろばんと計算機による日米対抗計算試合の新聞記事を見て「算盤は神経、されど計算機は技術なり」とメモに書く。 大手町・サンケイ会館で「14-A」の発表会を開催

1949(昭和24)年 24歳
東京・銀座の松坂屋で開催された「第1回ビジネスショウ」で電動計算機を見て計算機の将来性を確信し、忠雄に計算機の開発を持ちかける
1956(昭和31)年 31歳
リレー素子を使った計算機の開発を開始
札幌の太洋セールス本社でリレー計算機のデモをおこなうが失敗
内田洋行本社にて計算機のデモをおこない成功
1957(昭和32)年 32歳

武蔵野市西久保にカシオ計算機株式会社設立
取締役技術部長に就任
大手町・サンケイ会館で「14-A」の発表会を開催
大手町・サンケイ会館で「14-A」の発表会を開催

1960(昭和35)年 35歳

代表取締役専務 技術部長に就任 代表取締役専務 技術部長に就任

1970(昭和45)年 45歳
代表取締役専務 開発本部長に就任
1984(昭和59)年 59歳

藍綬褒章を受章

1986(昭和61)年 61歳
代表取締役専務 研究開発本部長に就任
1988(昭和63)年 63歳

代表取締役会長に就任 代表取締役会長に就任

2000(平成12)年 75歳
小型純電気式計算機など、先駆的な製品を開発した功績により米国家電協会より「生涯業績賞」を受賞する
2007(平成19)年 82歳
東京電機大学より名誉博士号を授与される
2011(平成23)年 86歳
名誉会長に就任
2012(平成24)年 87歳
5月15日死去

樫尾俊雄を語る

樫尾俊雄と近しかった方々に実体験を語っていただきました。
樫尾幸雄
樫尾俊雄の弟。
俊雄とともに計算機の開発に取り組んだ。
志村則彰
樫尾俊雄の下で、電卓・情報機器などの開発を担当。
羽方将之
樫尾俊雄の下で、電卓・楽器・映像機器などの開発を担当。
鈴木洋三
樫尾俊雄の下で、楽器・映像機器などの開発を担当。